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政治を学び直す――ある男性研究者の試み(新書余滴)

更新日:2019年10月5日

前田健太郎



『女性のいない民主主義』。この新書の一風変わったタイトルが決まったのは、本書の執筆の最終段階である。もともと筆者は、「男性の政治学からの脱却」という、より学術的な性格の強いタイトルを考えていた。というのも、本書は日本の政治を分析する本であるだけでなく、政治学という学問のあり方について考える本でもあるからだ。



日本の政治家や高級官僚に占める女性の割合が国際的に見て極めて低いことは、これまでも様々な人が論じており、さほど目新しい論点ではない。他方、この国の政治体制が民主主義と呼ばれている理由や、そのことが我々の政治に対する見方に与える影響については、あまり議論が行われてこなかった。本書は、この後者の問題に取り組むべく、日本の政治学の教科書で一般的に扱われるような「標準的」とされる概念や理論が、実際には男性の視点に偏ってきたことを、様々な学説の検討を通じて明らかにしている。


とはいえ、筆者は男性の研究者である。その男性が、自分の物の見方が歪んでいることを示唆するような本を出すことは、やや不思議に思われるかもしれない。そこで、ここでは本書の来歴について、「あとがき」に書き切れなかったことも含めて、少し詳しく述べることにしたい。


本書は、二つの発見から生まれた。第一は、筆者の研究対象が、実は日本社会における男女の不平等と深くかかわっていたということ。第二は、そのことに、自分も含めた政治学者の多くが気づいていなかったということである。まずは、この発見の現場に立ち戻ってみよう。


公務員の数をめぐって


「日本の公務員数は、先進国で一番少ない」。


そう聞くと、驚く人もいるだろう。一般的に、日本は官僚制の権力が強い国だとされている。そうだとすれば、日本の公務員の数も、きっと多いに違いない。行政の無駄を省くには、公務員数を削減し、肥大化した行政組織を縮小するべきではないか。少し前までの日本では、多くの政治家がそのような主張を掲げて、改革を競い合っていた。


ところが、公式統計が示す数字は、こうしたイメージとは乖離している。日本の公務員数は、国と地方を合わせて約330万人に上るが、人口比で見ると、欧米の先進国の数分の一に過ぎない。いったい、なぜ日本の公務員数はこれほどまでに少ないのだろうか。この謎を解明するべく、筆者が『市民を雇わない国家』(東京大学出版会)という本を出版したのは、2014年のことであった。幸いにして、この本は学術書としてはそれなりの好評を博し、その後の数年間に何度か版を重ねることになった。


だが、この本を書く過程で、日本の公務員数が他の国よりも少なくなった理由を探るうちに、どうしても、そのことがもたらした帰結の方も気になった。というのも、筆者がこの本の原型となった博士論文を執筆していた頃の2000年代の日本では、公務員数を減らすほど行政活動が効率的に行われるようになると考える風潮が強かったからである。その議論を受け入れるなら、日本の公務員数が少ないということは、日本の行政組織は効率的だということを意味する。そうだとすれば、日本の官僚制は、むしろ世界に誇るべき、優れた組織なのかもしれない。まことに結構なことではないか。


こうした理解が打ち破られたのは、他国の事例を勉強している時であった。日本の何倍もの公務員が他の国では存在しているのだとすると、それは一体、どのような人たちなのだろうか。この疑問に対する答えを探るうちに、ある本で興味深い記述に出会った。先進国で最も公務員数の多い国の一つであるスウェーデンでは、第二次世界大戦後に女性の労働参加が進む中で、仕事と家庭の両立支援を要求する声が高まり、それに対応するために保育サービスをはじめとする福祉サービス部門が拡大した。ここで雇用された職員の大部分は女性であり、それによって女性の社会進出がさらに後押しされたというのである。


日本の研究者にとって、これは無視できない指摘だった。スウェーデンといえば、世界屈指の男女平等の国だとされている。そのスウェーデンの男女平等への道が、実は公共部門における女性職員の増加に支えられていたのだとすると、公務員数が少ない日本は、その道を辿ることができないということになってしまう。


実際、公共部門の規模の大きな国では、一般的に女性職員の割合も高い。下の図は、OECDが2015年頃に行った調査に基づいて、各国の全雇用者に占める公務員の割合と、公務員に女性が占める割合を示した散布図である。一見して分かるように、各国は図の左下から右上へときれいに分布しており、スウェーデンが図の一番右上のグループに属するのに対して、日本は図の一番左下に位置している。

出典:OECD, Government at a Glance 2017より筆者作成。2015年の数字を用いた。

図1 公共部門の規模と公務員に占める女性の割合



もちろん、スウェーデンの事例ように、公共部門を通じて女性の社会進出が進むことについては、賛否もあろう。というのも、そこにおいて生み出される女性の雇用は、育児などのケア労働を担う職種に偏るからである。だが日本では、その選択肢ですら存在していなかったのだ。しかも今日では、地方自治体の行政改革が進められる中で、女性の集中する職種の非正規化が進んでおり、その労働条件が極めて悪い。日本が先進国でも男女の不平等が著しい国であることの原因の一端は、ここにあるのではないか。従来、このような視点は、日本で行政改革を論じる際、ほとんど取り上げられてこなかった。


自分の視野の狭さに気づく


だが、筆者は自分の発見を喜んでばかりはいられなかった。よく考えれば、このことに気づく機会は、それまでいくらでもあったはずである。大学生の頃、就職活動について友人たちと話している時、女性の友人たちは、公務員を有力な就職先として挙げることが多かった。民間部門とは違って、公共部門では性差別が行われにくい、というのがその理由であった。この論理を辿っていけば、日本に公務員数が少ないということは、相対的に女性が働きやすい職場の数が少ないということを意味していることになる。それにもかかわらず、当時の筆者の思考は、そこには至らなかった。せいぜい、「役所の方が企業よりも男女平等なのだな」という印象を抱いたぐらいであったように思う。大学院に進んで何年か研究を続けて初めて、ようやく理解が進んだのだった。


問題に気付くまでに時間がかかったのは、筆者が男性だったことと無縁ではないだろう。多くの女性が日々の暮らしの中で直面する困難を、男性である筆者は経験せずに生きてきた。そのことで、視野が狭くなっていた可能性は高い。女性であれば当然のごとく分かっていることを、今さら自分のような男性が何かの発見のように誇ることは、ともすればマンスプレイニング(男性が、女性が無知であるという偏見に基づいて、女性に対して見下した態度で物事を説明すること)の一種に過ぎないようにも思われた。



(「マンスプレイニングの像」。アメリカ合衆国のインカネート大学にあるNew Friends(新たな友人)という題の銅像。この写真は、男性が女性を見下ろす構図から、「マンスプレイニングの像」として話題となった。Alanna Vagianos, “One Statue Perfectly Captures Mansplaining,” Huffington Post, May 27, 2015. 画像はtwitter @SadDiego より)



しかし、男性から見た世界と、女性から見た世界は、そこまで違うのか。ここでは、本書で用いたデータを使って考えてみたい。図2は、国際社会調査プログラム(ISSP)の2012年度調査のデータに基づいて、日本の男性と女性の週当たりの家事労働時間と有償労働時間の分布を示した散布図である。図上の点は、全ての回答者の位置を示している。この図の(a)と(b)を見比べると、男性は週に40時間以上働くフルタイム労働者が多く、その家事労働時間は概して短い。これに対して、女性は家事労働時間も、有償労働時間も、非常にばらつきが大きい。


出典:ISSP2012より筆者作成。

図2 日本の男性と女性の労働時間



この図を見ると興味深いのは、この調査対象者のサンプルの中に、長時間の家事労働を行っている男性がほとんどいないことである。この調査は無作為抽出に基づく以上、その母集団である日本社会全体を見ても、伝統的に専業主婦が担ってきたような長時間の家事労働を行うことの意味を知っている男性は極めて稀であると考えられる。ましてや、長時間の家事労働を行いながら、同時にフルタイム労働を行う「ワンオペ育児」を強いられる母親たちの苦闘など、男性は知る由もないだろう。そして、家事労働時間と有償労働時間を合計すると、実は日本の女性は平均して男性よりも長く働いている。このことも、家事労働がどれほどの重労働であるかを知る機会がない男性には、気づきにくいに違いない。


さらに、これは男性に限らないが、日本で暮らしているだけでは見えにくいことがある。それは他の国ではこうした男女の違いはそれほど大きくないということである。例えば、図3では、同じISSPのデータを用いて、スウェーデンにおける男女の労働時間を図示した。この図を見ると、男性と女性の労働時間は、有償労働と家事労働とを問わず、比較的均等に分散している。そして、有償労働時間が男女ともに週40時間付近に集中しているのは、どちらもフルタイム労働を同じように従事する人が多いことを意味している。男性と女性の家事労働時間の格差も、それほど大きくはない。


出典:ISSP2012より筆者作成。

図3 スウェーデンの男性と女性の労働時間



このように、男性の視点からは、見えないものが少なくない。そう考え始めると、政治学の他の領域に関する自分の知識にも、だんだんと自信が持てなくなってきた。行政組織についてはもちろんのこと、政治体制や選挙制度に関する政治学の概念や理論についても、実は自分の理解にジェンダー・バイアスが含まれているのではないかという疑念が、頭をもたげてきた。


そこで筆者は、政治学の入門講義を担当する機会を利用して、ジェンダーの視点から政治学を見直す作業を始めた。それは、驚きの連続だった。どのような分野でも、(多くの場合女性の)ジェンダー研究者が、何らかの形で既存の政治学の概念や理論が持つジェンダー・バイアスを指摘していた。本書の「あとがき」にも書いたように、最初は授業1回分をジェンダーの話に充てようと考えていたが、それでは足りないことはすぐに明らかとなった。


不思議だったのは、政治における男女の不平等について、これだけ豊かな研究成果がありながら、日本の大学で使われている教科書や、一般の書店で販売されている入門書では、それがほとんど紹介されていなかったことである。何らかの形で、この状況を改められないだろうか。そう考えていた矢先に、岩波新書編集部の安田衛氏から、何か新書を1冊書かないかというオファーを頂いた。ここから、『女性のいない民主主義』が生まれた。


そこで最後に、本書がどんな本なのか、少しその中身を覗いてみよう。


民主主義の意味


「女性のいない民主主義」という言葉は、第2章の冒頭の一節に由来する。ここでは、第一次世界大戦の最中の1917年4月に、アメリカ合衆国のウッドロー・ウィルソン大統領が連邦議会で行った有名な演説を取り上げた。この演説が、政治における男性の視点の特徴を明確に示していると考えたからである。


この演説の中で、ウィルソンは「世界は、民主主義にとって安全にならなければならない」と述べた。一見すると、このフレーズには特に不思議なところはない。日本では、アメリカといえば民主主義の国である。また、民主主義を広げるためならば戦争をすることも辞さない国だというイメージも強い。その国の大統領が、第一次世界大戦に参戦するにあたって、民主主義をシンボルとして掲げるというのは、当たり前のことであるようにも思える。


だが、この時代のアメリカには、そうは考えない人々もいた。その代表は、当時、女性参政権を求めて運動を展開していたフェミニストたちである。女性が大統領選挙や連邦議会選挙で投票する権利を持っていないのに、なぜアメリカは民主主義の国だと言えるのか。こうした問題意識の下、1917年の初頭から夏場にかけて、全米女性党の組織した「サイレント・センティネル」と呼ばれる活動家グループが、ホワイトハウスの入口で抗議運動を開始した。彼女たちは、ウィルソン大統領に向けた様々なメッセージが書かれた旗を無言で掲げ、女性参政権の導入を訴えた。そのメッセージの中には、ウィルソンの議会演説の盲点を的確に突いていたものもある。例えば、下の写真で活動家が掲げている旗には、次のようなことが書かれている。


ウィルソン皇帝陛下。自己統治の権利を持たない、哀れなドイツ国民に示された衷心を、もう忘れてしまわれたのですか。アメリカの2000万人の女性たちは、いまだに自己統治の権利を持っておりません。ご自分の目の中から、梁を取りのける時です。


(Virginia Arnold [holding Kaiser Wilson Banner], Wikimedia Commons  「ご自分の目の中から、梁を取りのける時です」は『新約聖書』「マタイによる福音書」7章5節および「ルカの福音書」6章42節に登場する表現。自らの行いを正すことなく他人に説教するという偽善を戒めるべく、他人の目の中に塵があるのを指摘する前に、まずは自らの目の中にある木片を取り除くことを説く。)



実に見事に皮肉の利いた文章ではないだろうか。この後も活動家たちは抗議行動を続け、それに押されてウィルソンも女性参政権の導入に向けて議会の説得を開始する。憲法修正第19条によって女性参政権が導入されたのは、戦後の1920年のことであった。


歴史的に見れば、アメリカが民主主義の国であるというイメージは、この第一次世界大戦の時代を境に、日本など世界各国に広がったと言われている。だが、その決定的な瞬間に、民主主義という言葉が、アメリカ国内で論争の対象となっていたことを、決して見逃してはならない。ウィルソン大統領のような男性から見れば、アメリカの政治体制は民主的に見えたのであろう。だが、選挙権を持たない女性から見れば、それは政治的権利の制限された、非民主的な体制だった。フェミニストたちは、自国の民主化が不十分であるにもかかわらずドイツの権威主義体制の打倒を説くウィルソンの偽善を突いたのである。


おわりに


この例に限らず、ジェンダーの視点から政治を眺めると、これまで多くの人が馴染んできた政治の見方が、実は男性の視点に基づいていたことが明らかになるであろう。そして、とりわけ日本において、政治のあらゆる側面に男女の不平等がつきまとっているという事実が浮かび上がるに違いない。『女性のいない民主主義』は、このような観点から政治学を見直すこと試みた。


本書を執筆する過程は、一人の男性研究者である筆者が、新たな気持ちで政治を学び直すための旅であった。その旅の途中で、様々なテーマに寄り道するたびに、政治についての自分の理解が改められた。日本の政治体制の性格、公共政策の作られ方、選挙の仕組み、その他にも様々な事柄が、本書を書き始めた頃とは違って見える。それは長い旅だったが、刺激に満ちた旅であった。この体験を、ぜひ読者の皆さんとも分かち合いたいと思う。


 * * *



まえだけんたろう 1980年、東京都生まれ。2003年、東京大学文学部卒業。2011年、東京大学大学院法学政治学研究科博士課程修了、博士(法学)。首都大学東京大学院社会科学研究科准教授を経て、現在、東京大学大学院法学政治学研究科准教授。専攻、行政学・政治学。著書に『市民を雇わない国家――日本が公務員の少ない国へと至った道』(東京大学出版会、第37回サントリー学芸賞〔政治・経済部門〕)。


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日本では男性に政治権力が集中している。何が女性を政治から締め出してきたのか。そもそも女性が極端に少ない日本の政治は、民主主義と呼べるのか。気鋭の政治学者が、政治学のあり方を問い直し、男性支配からの脱却を模索する。

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