記事執筆:森旭彦
「宇宙とは何か?」と聞かれたら、どう答えるだろう?
ある人は1969年のアポロ11号の月面着陸のことを話すだろう。
またある人は、映画の中の世界で語られた「オリオン座の近くで燃えた宇宙船や、タンホイザー・ゲートのオーロラ」とはどんなものかと空想するかもしれない。
しかし物理学者の答は明確だ。
「それはひとつの式で、“記述”される」
物理学者の目から見る宇宙は、数式で書かれた、いわば戯曲だ。
実際の演劇と同様、戯曲『宇宙』は1つの時間と、舞台上の3つの方向(縦、横、高さ)において記述される。
物理学者とは、この壮大なミュージカルを手がける劇作家なのだ。
戯曲『宇宙』において、重要なシーンに登場するのが、
理論物理学者、橋本幸士教授が研究する『超ひも理論(超弦理論)』だ。
それは現代の素粒子物理学における“究極の理論”だとされる。
黒板とチョークで、宇宙の戯曲を書く物理学者、
その舞台裏<バックステージ>を訪ねた。
素粒子の標準模型の作用(に重力の作用を加えたもの)
この数式は、宇宙を支配する数式であり、現時点で人類が知る最良の物理理論である。数式には、物理学において最大級の偉業を成し遂げた科学者たちの足跡が刻まれている。それらには、一般相対性理論のアルベルト・アインシュタイン、日本からは超ひも理論の原型を提唱した南部陽一郎、岩波新書『素粒子』(1969)を片山泰久、福留秀雄らとともに上梓した湯川秀樹が含まれる。
◆点から「ひも」へ
これが戯曲『宇宙』である。
演出家にして劇作家の平田オリザは、戯曲を「劇作家の見ている世界の見取り図」だと述べている(『演劇入門』講談社現代新書)。
この視点を借りるとすれば、この数式は、素粒子物理学者の見ている宇宙の見取り図と言えるだろう。この宇宙で起きるありとあらゆることの予測ができる、橋本教授の言葉を借りれば「宇宙を支配する数式」だ。
「素粒子の標準模型の作用(に重力の作用を加えたもの)」と呼ばれるこの数式は、この宇宙を「重力」「強い力」「弱い力」そして「電磁気力」の相互作用によって記述する理論に基いている。
素粒子とは、自然界をかたちづくる物質と力の最小部品だ。素粒子の働きから、この宇宙がどのようにできているのかを明らかにしようとする学問が、素粒子物理学である。
「素粒子物理学の観点から見た時、遥か宇宙の彼方の出来事から、あなたと私まで、すべて“同じもの”なのです」(橋本教授)
たとえば、この記事を読んでいるあなたは、手の筋肉を使ってスマートフォンで読んでいる。そして書き手である私は、手の筋肉を使ってパソコンのキーボードを叩き、この記事を書いている。この両方の動作を可能にしているのは、私たちの体内の神経のサーキットを流れている電気信号だが、電気を担う電子は素粒子であり、その働きは、すべてこの数式に基いている。
従来、素粒子はサイズがゼロの「点」であると考えられ、この自然界の最小部品だとされてきた。
しかし橋本教授が研究する超ひも理論では、この素粒子が点ではなく「ひも」でできていると考える。それも、それぞれに異なったひもが、それぞれの素粒子を構成していると考えるのではなく、「ひもの振動」や端点の個体差が、素粒子の働きを決定していると考える。
つまり従来は個別の粒子と考えられていた素粒子は、実はみな同じひもででできており、それぞれの振動の仕方や端点のくっつき方、巻き付き方が異なっているために違う特徴を帯びているように見えるという発想である。従来の素粒子物理学が、「点から見た宇宙」とするならば、「ひもから見た宇宙」を考えるのが、超ひも理論の立場ということである。
素粒子がひもでできていると考えると、どのような利点があるのだろう?それは素粒子の捉え方が非常にシンプルになるということだ。現在は先述した電子や光の粒子「光子」などを含め、約20種類の素粒子が知られているが、これらを同じひもの振動の仕方や端点のくっつき方、巻き付き方として理解することができるためである。
「私が超ひも理論について話す時、もっともよくされる質問が『素粒子が“ひも”でできているのなら、その“ひも”は一体何でできているのですか?』というものです。これは理論物理学者の発想の仕方でもあるのですが、私たちはそもそも、ひもが何からできているか、ということは考えないのです。どうしたわけか、この宇宙では、素粒子がひもの性質を持つものだと仮定すると、理論上矛盾がなくつくられているように計算ができる。実験で検証される必要がありますが、その理由は『自然が選んだ』ということ以外、誰にも分かりません。ただ『矛盾がない』、ということだけが、超ひも理論を支持する私たちに分かっていることであり、矛盾の無い理論を見つけ、この宇宙の理解を進めることが私たち理論物理学者の仕事なのです」(橋本教授)
◆宇宙の「プロローグ」、その以前
戯曲『宇宙』の最大の見せ場のひとつは、「量子力学」と「一般相対性理論」を矛盾なく統合することだ。そして超ひも理論を実験で検証することはその見せ場を支える重要なイベントとなることが期待されている。
「前世紀の物理学における偉大な功績は、ヴェルナー・ハイゼンベルグとエルヴィン・シュレディンガーが完成させた量子論、そしてアルベルト・アインシュタインの一般相対性理論です。このふたつの理論を矛盾なく統合する枠組みの完成こそ、現代物理学の目指すところであり、私たちが宇宙をより矛盾なく理解することに繋がります。しかし現在のところ、それは成されていません。量子論と一般相対性理論を統合し、矛盾なく計算する『量子重力理論』において、もっとも確からしい提案ができるものが超ひも理論だと言われているのです」(橋本教授)
量子論は、おおまかに言えば、素粒子の運動など、極端にミクロな世界における物理現象を扱う理論だ。一方の一般相対性理論は現在における重力の主たる理論であり、空間の歪みが重力を生み出していると考える。一般相対性理論によって、地球を含む天体の軌道や、宇宙の膨張などを詳細に計算することが可能だ。
しかし、これらの現代物理学の基礎となる理論を用いて、ミクロの世界における重力の効果を計算しようとすると、物理的に意味のある結果がもたらされない。一般相対性理論が扱うスケールは天体などの大きな対象の重力であるため、素粒子レベルの微小な重力(量子重力)を適切に扱うことができない。微小なはずの重力効果が、計算上、無限大になってしまうのだ。
「朝永振一郎は1965年に『量子電気力学の構築と素粒子物理学への深い功績』により、ノーベル物理学賞に輝きましたが、その功績のひとつに、この無限大を“差っ引く”ことができる「くりこみ理論」があります。この理論は、大まかに言えば、無限大の量が量子論の計算結果で出てきた場合、量子論のパラメータも無限大にし、計算上、相殺しようというものです。なぜだか理由は分かりませんが、素粒子の標準理論は、くりこみを行っても矛盾が生じない枠組みになっています。しかし、くりこみ理論は“人工的”だと考えられており、朝永振一郎が提案したときにも、将来的にはもう少し自然な提案で置き換えられるだろうと考えていた物理学者もいたようです。さらに、一般相対性理論はくりこみができません。しかし重力理論を超ひも理論で置き換えると、計算しても無限大が出ないのです。これは、くりこみというものが人工的だということに対するひとつの答になっている可能性があり、さらには重力と量子力学は本来、矛盾なく計算できるものであることも示唆しているのです」(橋本教授)
ミクロな世界の重力、量子重力理論が理解できると、何が分かるのだろうか。数多くもたらされるであろう科学の進展のうち、大きなものは、宇宙の始まりについての理解がより深まることだという。
「宇宙が加速膨張をしているというのはすでに観測で分かっています。しかし加速膨張しているということは、遡ってみると、小さかった時期があるわけです。そこで物理法則を使って逆算して遡ろうと考えた学者がいます。その結果もたらされたものが、1960年代に数学者ロジャー・ペンローズと理論物理学者スティーブン・ホーキングが証明した『特異点定理』です。この定理によれば、ブラックホールや宇宙のはじまりは、物理法則が破綻する『特異点』と呼ばれる小さな点になります。『点からはじまっているわけないだろう』と誰でも思いますよね? でも、現在の科学は特異点以外に答えを出せないのです。特異点では物理法則が破綻するため、それ以前はどうだったかが予測不可能になるのです。破綻する原因は、ミクロな世界における重力、つまり量子重力が分かっていないことでしょう。逆算して遡っていく時、現在は一般相対性理論の重力理論を使っているので、先述したように量子力学的な重力のレベルになると、数式は無限大を出してしまい、破綻してしまう。もし量子重力理論が完成すれば、数式は破綻することなく、宇宙の始まりの点の、そのまた前まで遡れる可能性があるのです」
宇宙の始まりの前について、現在、様々な説がある。始まりのその前にはまた宇宙があり、宇宙はしぼんだり広がったりしているとする『サイクリック宇宙論』、時間が虚数になっているとするスティーブン・ホーキングによる説、この宇宙(ユニバース)は一つではなく、多数存在する『マルチバース』の理論――これらを検証する上で、量子重力理論は重要な役割を果たすと期待されている。
「とはいえ、物理の全ては自然が選ぶことです。現在素粒子は約20種とされていますが、『こんな素粒子が他にもあるんじゃないか?』という説は世の中にたくさんあります。あらゆる物理学者が提案をしているわけですが、たとえば2012年にヒッグス粒子が実験で発見されたとき、その実験結果と異なる提案はすべて棄却されました。それは、自然は選ばなかったということです。超ひも理論も同様で、有望であると言われていますが、将来的に実験で検証されるまでは、たくさんある仮説のひとつなのです」(橋本教授)
『素粒子』、これは素粒子物理学の歴史書であり、科学書。
1969年に湯川秀樹らが著した岩波新書『素粒子』。くすんだ青版の表紙の色が、黒板の色に重なる。「前半は歴史書です。後半最後の湯川の部分は科学書です。このうちのいくつかの記述は、今は間違っていることが分かっているものですが、湯川が自分の考えをきちんと書きつけていることが分かります」。橋本教授は同書を大学生の頃に手に取った。当時はほとんどのことが分からなかったと言う。
◆理論物理学は黒板とチョークでできている
橋本教授は大阪大学で教鞭をとっている。
学生というのは、学期が始まる頃は元気が良い。しかしひと月、ふた月と経つにつれ、だんだんと遅刻や欠席が増えていく。教室の士気が下がるのだ。ある時、橋本教授は遅刻してきた生徒にこう尋ねた。
おい君、今君は遅刻をしてきたわけだが、今の自分を方程式で書くことができるかな?
橋本教授は、黒板に数式を並べていく。
遅刻、これは「出席率」という「時間の関数」だ。どんな方程式を解けば、解が君たちの「出席率」関数になるだろうか? まずこれは単調増加関数で、“上に凸”の関数になっている。これは時間に関する微分方程式の解だ。この方程式を書くためには、外的なファクターについても記述する必要がある。たとえば朝のバスの時間、眠いこと、しかし単位を取らないといけないといったことも記述される必要がある。そして初期条件を始業時間の9時ぴったりに合わせる。こういう方程式を書くことが、物理学者の仕事なんだよ。
「みんな、ぽかーんとしていましたね」と橋本教授は笑って振り返る。
この記事の取材は、大阪大学の橋本教授の居室で行われた。
その居室は、壁一面が黒板になっており、数式が所狭しと書かれていた。数式に囲まれながら話を聞いていると、橋本教授が教室で話すたび、眼前の黒板に数式が並んでゆく様子が目に浮かんだ。
理論物理学者は、昼食でも、ティーブレイクでもなんでも、集まればすぐに議論になるという。その傍らにあるのが、黒板とチョーク。彼らはこのシンプルな仕事道具をつかって、宇宙はどのようにできているかを日夜考えている。
「大学によっては、エレベータの中に黒板がある。テーブルがそのまま黒板になっている大学もあります。僕が理化学研究所で研究室を持った時、壁面全体の大きな黒板を入れました。すると研究員がみんなその黒板を愛用するようになり、私の研究室はたちまち、公共の議論の場になりましたね」(橋本教授)
この「黒板好きの橋本」の噂が、現在、大阪大学理学部H棟7階に設置されている、ノーベル賞に輝いた物理学者・湯川秀樹が愛用していた黒板との出会いを引き寄せる。
「アメリカのコロンビア大学には、湯川秀樹が客員教授時代に使っていた居室がそのままに残されていました。しかし、建物の建て替えが決まり、湯川の居室も取り壊されることになりました。その時、『誰か黒板が欲しい人はいないか?』という話になり、私が推薦されたということです。私は、学生なら誰でも使えるコミュニケーションスペースに湯川の黒板を設置することにしました。大阪大学理学部H棟7階には、超ひも理論の提唱者である南部陽一郎の居室もゲストを招くための応接室として残されています。大阪大学の学生は、いつでも湯川や南部の存在を近くに感じながら議論やゼミができるんです」(橋本教授)
大阪大学理学部H棟7階にある、南部陽一郎の居室
時間二次元小説
◆科学者であり、詩人であり、落語家であり、役者であること
橋本教授は、多くの人に物理学の、そして科学の面白さを知ってほしいと考え、研究の傍ら、さまざまな活動を行っている。それにはアート活動も含まれる。
これは、橋本教授がある時、「時間が2つあったら?」という科学の問いから着想し、創作した「時間二次元小説」だ。100通り以上に読め、それぞれに異なるストーリーになる。橋本教授がツイッター上で公開すると、17000回以上もリツイートされ、自ら作り出す人も現れたという。
超ひも理論は、この世界が9次元であることを予言している。しかし私たちは常日頃から三次元の空間に生きているため、高次元をイメージしづらい。そこで橋本教授は、映像作家の山口崇司氏とコラボレーションし、物理数式をプログラム言語に翻訳。『超ひも理論 知覚化プロジェクト』として高次元の可視化に挑戦した。
こうした活動は、科学者という存在を多くの人に知ってもらいたいという気持ちに裏付けられているのだという。
「現象を観察して、背後の原理を理解し、そして実験と比べる。それが科学のもっとも基礎となるサイクルなんです。この面白さを知るにはどうすればいいのか。いちばん手っ取り早いのは、本の中の理論ではなく、まずはひとりの科学者の頭の中を理解すること。それがまた次の科学を理解するための、足がかりになるわけです」(橋本教授)
また、最近では落語や演劇への出演とその活動はますます“高次元”に及んでいる。
「魅力的なアートと、多くの人に引用されるような影響力のある科学の論文は似ているのだと思います。どちらも新しい視点や切り口を持っているということです」橋本教授にとって科学とアートは“繋がっているもの”なのだという。
橋本教授は今日も理論物理学者として日常を生きる。時には詩人として、役者として非日常を生きる。そうしてまた理論物理学者の日常に戻ってくる。まるで橋本教授は、さまざまな素粒子に変化し、多様な現象を生み出しているかのようだ。
しかし、超ひも理論がそうであるように、そのすべては、同じひもでできているのだ。
橋本教授を初め、理論物理学者はTシャツを着ていることが多い。「素粒子の標準模型の作用」の数式が書かれたTシャツもある。写真のものは「反り(そり)ウシ」Tシャツ。言及するのも野暮だが、自然界をかたちづくる物質の最小部品だ。
橋本幸士(はしもとこうじ)
大阪大学教授(大学院理学研究科 物理学専攻 素粒子論研究室)。1973年生まれ。大阪育ち。著書に『超ひも理論をパパに習ってみた──天才物理学者・浪速阪教授の70分講義』『マンガ 超ひも理論をパパに習ってみた―─天才物理学者・浪速阪教授の70分講義』ともに講談社刊、ほかがある。個人ツイッターhttps://twitter.com/hashimotostring
●記事執筆者
森 旭彦(もり あきひこ)
京都生まれ。2009年よりフリーランスのライターとして活動。 主にサイエンス、アート、スタートアップ等に関連したもの、その交差点にある世界を捉え表現することに興味があり、インタビュー、ライティングを通して書籍、Web等で創作に携わる。 幼い頃からサイエンスに親しみ、SF、サイエンスノンフィクションの読み物に親しんできた。自らの文系のバックグラウンドを生かし、感性にうったえるサイエンスの表現を得意とする。 WIRED、ForbesJAPANなどで定期的に記事を執筆している。 http://www.morry.mobi
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