新刊『異端の時代――正統のかたちを求めて』の著者・森本あんりさん(国際基督教大学〔ICU〕学務副学長・同教授)に、新書の隠れた読みどころ、お薦めの読み方をうかがってきました。
* * *
◆本当に書きたかったのは――?
――「異端」「正統」と聞くと宗教的なイメージをもつ人が多いのではないかと思います。この切り口を今日の世界を読み解くうえで用いられたのはどうしてでしょうか。
「正統」「異端」は、宗教だけでなく、政治、文化、学芸など広い領域で意識されている言葉だと思います。誰も自分のことを正面切って「正統」だなんて言いませんが、実は内心そう思っている人は多い。逆に自分は「異端」だと開き直る人もいますが、その本音はやっかみだったりすねているだけだったりします。
「宗教」というと、仏教とかイスラム教、キリスト教など名前のついた組織宗教のことだと思われがちです。でも、この本の中でも、たとえばポピュリズムは宗教なき時代に興隆する代替宗教の一つだ、と書いたのですが、宗教性というのは、一般に想像される組織の枠を超えて、さまざまな形で現われます。人間が「意味の余剰」を求める存在である限り、政治にも社会現象にも正統と異端という意義づけの問題は必ず滲出(しんしゅつ)してくると思います。
――異端というと、正統から弾圧され追放された存在、というイメージがあります。
そこは、ぜひともこの本を読んでいただきたいですね。正統は謹厳実直でいかめしい顔をしていて、会議室の奥のほうに座っている偉そうな大御所、という印象が強い。わたしは、いや、そうじゃないんだ、と言いたいのです(笑)。
たとえば、真面目なのは伝統的には異端のほうです。正統は、人数が多くなければそもそも正統たりえないし、多くの人が属するということは、厳正さよりも緩やかさ、いい加減さが備わっていなければいけない。
「正統」と「異端」のトポグラフィ(位置取り)を少し違った目でみてもらいたい、というのがこの本の前半です。
――「異端の時代」という書名にはどんなお考えが込められているのでしょう。
昔は、意識されているかどうかは別として、あらゆる領域で「正統」と思われる存在があった。でもいまは、人間がつくった制度――たとえば選挙とか政党、裁判や司法、専門家や知識人、あるいは出版界もそうかもしれませんが、既存のシステム全般に対する不信感が強まっています。
あらゆるものの権威が失われていく時代に、正統の復権は可能なのか。それが、本書を書き始めた問題意識です。メインタイトルは「異端の時代」ですが、本当に書きたかったのは、サブタイトルの「正統のかたち」のほうなんです(笑)。
実は、正統は言葉では捉えられません。
どういうことかというと、本来、正統の権威は、おのずと他によって認められるもの、誰もが当然と思って無意識に前提しているものです。それをあえて言葉にして主張せざるを得ないのは、「正統」が既に危機にある証といえるわけです。
そういう言語になる以前の「正統」のかたちを何とか指し示す方法はないか、と模索したのがこの本です。
◆読者に薦める3冊の本
――本書に関わって、読者にお薦めの本がありましたら教えていただけますか。
3冊、考えてみました。
まずは井筒俊彦さんの『コーランを読む』(現在は岩波現代文庫、初版1983年)です。井筒さんは、飛び抜けた言語感覚をもつ先生で、神の啓示をあえて言葉にしようとするとこうなる、ということをこの本で教えてくれます。
先ほど、「正統」は言葉では捉えられないと申し上げましたが、啓示というのも、本来的には人間の言語で表現できないものです。この本ではイスラム教のコーランが精読されているわけですが、宗教に共通しているのは、人間の言葉にできないものをどうやって表現するのか、という問いです。
たとえば、コーランの101章では、天地終末の日の近づく音として、「どんどん、と戸を叩く」と書かれています(『コーランを読む』現代文庫179頁)。なぜ「戸を叩く」なのか、それ自体の意味がどうかというより、終末の切迫性が言葉になるとこういう表現をとる、ということなのです。預言者ムハンマドの直接の啓示体験を人間に理解できる表現にするとは、一体どういうことなのか――それをよく教えてくれる。
井筒さんの著作は、人間の言語の限界に窓を、あるいは風穴を開けてくれるものだと思います。たとえばイザヤやアモスのような旧約聖書の預言書を読むときも、井筒さんのコーラン理解を読むと、とてもよくわかります。
次にアリストテレス『ニコマコス倫理学』(岩波文庫)です。
神学を勉強していると、バルトとかプラトンとかカントはよく読むんです。でもアメリカ留学中に、アリストテレス論の講義をとらなければならなくなって、嫌だなあ……と思っていました(笑)。最初は、トマス・アクィナスにもあまり興味がなくて――トマスはアリストテレスの哲学とキリスト教を融合した人ですが――、ところがアリストテレス、それからトマスを読み始めたら、こんなに面白い世界が広がっているのか、と。これまで、自分は視界の半分でしか世界を見ていなかったんだ、と感じました。
たとえば正義や幸福といった大きなテーマ、それから私の大事な概念である習慣(ハビトゥス)についても示唆に満ちています。
私の本では、アリストテレス『自然学』の四原因論にも言及していますが、先日も学内でイギリス人の教員と大げんかをしました。予算がないからあれができない、これもできない、つまり「作用因」がない、と文句を言われたので、いやそりゃ「作用因」じゃなくて「質料因」だよ、足りないのはあんたのやる気で、それが「作用因」だよ、と。こういう学問的なけんかには勝たねばなりません(笑)。
最後に、森有正『ドストエーフスキー覚書』(現在はちくま学芸文庫、初版1967年)です。この本は、キリスト教の思想の中核部分を、最初の一頁で射抜いています。学生時代に初めて読んで以来、ずっと考えてきました。何が書いてあるかは読んでみて下さい(笑)。
◆『異端の時代』をどこから読むか?
――普段はどんなふうに本を読まれますか。『異端の時代』の読者に向けて、お薦めの読み方がありましたら教えて下さい。
本をどうやって読むか。二通りあります。多くの場合は、ぜんぶ真面目に読むわけではありません(笑)。「はじめに」と「終わりに」と目次、真ん中はざーっと追ってゆくくらい。でも、面白いと思ったら、1頁目から1字も逃さずにきちんと、舐めるように読みます。表現も愉しむ。そういう貴重な本に出会える時がいいですね。10冊のうち、1冊そういう本があったら。
『異端の時代』をどうやって読んでもらいたいか。前半は少し専門的に感じられるかもしれません。「正統のかたち」については、特に7章以降で論じていますので、まずは8章あたりから読んでいただくとよいと思います。
この終盤を書きたくて、丸山眞男の正統論(1章)、それを受けて初代教会の歴史を辿ってゆく2~4章があるという位置づけです。前半はその準備ですが、まずそこで「正統」と「異端」をめぐる通俗的な概念をひっくり返しておかねばなりませんでした。正統が異端を駆逐した、という「陰謀論」がらみの理解も、史実によってきちんと反駁しておく必要があったのです。
それと、丸山の言う「片隅異端」の問題です。宗教改革者のルターは、自分が異端だとは決して考えていませんでした。それどころか、自分こそ真のキリスト教精神を体現している、いかに長い歴史をもっていても、ローマ教会こそ誤っていると主張した。だから大きな変革の原動力になったのです。
日本にはそういう本物の異端がなかなか出てきません。異端というのは、エネルギーが要るんです。正統も要りますけどね。
いま、何となくみんなが平気で異端を名乗るようになりましたが、「なんちゃって異端」が多いですね。腹の据わった異端というのは、単に権力者や上層部に文句を言う人のことではありません。やがて自分こそが正統を担い、王道を進む。そういう覚悟をもった、線の太い異端が出てきてほしいと願っています。
◆森本あんりさんのウェブサイト「神学宗教学 研究室の窓」はこちら
Komentarze