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執筆者の写真岩波新書編集部

在野に学問あり 第6回 読書猿さん

記事執筆:山本ぽてと


◇はじめに


この連載は在野に関わる人々を応援するものだ。


前回の更新から1年以上時間が経ってしまった。コロナ禍によって、在宅時間を持て余す人が増え、「独学」に光の当たった1年であったように思う。読書猿さんの『独学大全』(ダイヤモンド社)が大ヒットし、英語学習についての新書が注目され、『BRUTUS』では「勉強」特集が組まれた。大学によるYouTube授業なども盛んだ。


ちなみに『BRUTUS』の「大人の勉強案内」では、荒木優太さん(第1回)、山本貴光+吉川浩満(第2回)も登場している。私も3つの記事に関わった。この「在野に学問あり」も更新をする千載一遇のチャンスであったが、ぼんやりしているあいだに時間が経ってしまった。


さて、今回はまさに『独学大全』が売れに売れている読書猿さんに話を聞いた。インタビューはコロナ禍であることと、読書猿さんが遠方にお住まいのため、「在野に学問あり」初のZOOM取材で行われた。

読書猿(どくしょざる) メルマガ「読書猿」で書評活動を開始。2008年にブログ「読書猿 Classic」を開設。ギリシア時代の古典から、現代文学からアマチュア科学者教則本、オールジャンルに書籍を紹介。著書に『アイデア大全』(フォレスト出版)『独学大全』(ダイヤモンド社)など。昼間はいち組織人として働いている。



ちなみに、読書猿さんにインタビューをしたと言うと、彼のブログの愛読者たちから「あんなに博覧強記な人、本当に実在するのか?」「AIじゃないのか?」と質問をされたが、読書猿さんは(私の目と耳で確認する限りは)、実在する人間であったことをここに記しておきたい。



◇「学問」じゃない?


――今日はよろしくお願いします。


実は今日、申し訳ない気持ちで来ました。「在野に学問あり」のタイトルに偽りあり、になってしまうかも、と。ぼくは在野でやっていることは間違いないのですが、研究をしているわけでも、学問をしているわけでもないと思っています。これは別に卑下して言っているわけじゃないんです。むしろ、研究なんかと一緒にされたくない(笑)。いきなり最初から、こんな話で……。


――いえ、聞きたいです。


じゃあ、大きな口を先に叩いて、あとで謝ろうと思います(笑)。


ぼくは自分がやってることを学問だとは思っていません。研究ではなおさら無い。「知的営為」という、なんでも当てはまりそうなゆるい言葉を使って自分のやっていることを説明しているんですが、頭を使って何かをする、くらいの意味で捉えていただければ。


例えば、研究(アカデミック・リサーチ)は知的営為の一部、とても重要な部分ではありますが、でも一部でしかありません。これは悪口ですけど、多くの研究者は、研究こそが知的営為の理想形であり、それ以外は亜流であると、無自覚に捉えている気がします。だから研究者じゃない人がおこなった知的営為の成果物を見て、「もう少し頑張れば研究になるよ」とか、「研究と言ってもおかしくないですよ」とか、自覚なしに褒めたつもりでいう訳です。大きなお世話だと思います(笑)。


そもそもアカデミック・リサーチを成り立たせる制度なり規範が成立したのは、ヨーロッパでもせいぜい18世紀半ばから19世紀です。それ以前からヒトは、もちろん読んだり書いたり考えてきた訳で、知的営為の歴史からすると、アカデミック・リサーチは新参者なんです。長い年月をかけて重ねられた知的営為の蓄積の上に、書物が編纂されたり執筆されたりしてきたわけで、近代的なアカデミズムの基礎も、そうした知的営為の上に築かれました。


こんな風な見方をしてしまうのは、ぼくがきっと、アカデミック・リサーチが成立する前の時代の知の在り方に憧れているからだと思います。大学では哲学科に進みましたが、それはぼくが文学、物理学、芸術……となんでもやりたかったから。哲学だったらなんでも出来るような気がしていたんですよ。


でもそれは大間違いでした。研究のことも、現在の大学がどういうところかも、何も分かっていなかった。当然ながら、哲学は今では専門分野のひとつであり、哲学科に入るとみんな哲学ばかりやっている。もちろん、哲学科には変な人が集まるので、それはそれで知的な欲望を満たすことができましたが、やはり主流ではありませんでした。要するに、哲学に見込み違いの幻想を抱いて近づいて……まぁ、失恋したんです(笑)。


じゃあ自分がやりたいこと、やろうとしていることは何だろうか、と。長い時間かけて、いろいろ考えて探したあげく、「フィロロギー」という古い言葉に出会ったんです。哲学(フィロソフィー)だと、古代ギリシア語のピロス(愛する)+ソフィア(知)ですよね。一方ピロス+ロゴス(言葉、学)が「フィロロギー」です。この「フィロロギー」ーは、キケロというローマの政治家・弁論家であり、哲学者でもあった人物がつくった言葉らしいんです。


日本では、近代ドイツですごく精緻な学問になったところから「フィロロギー」を輸入したこともあって、「古典文献学」と訳してます。有名どころだとニーチェがフィロロギーの教授でした。ぼくとしては、文献学をちゃんとやる能力もないので、むしろ、キケロがつくった元々の意味に近い、ロゴスを愛する人、つまり、好事家ならぬ好学家であると自分を位置づけています。


――具体的にフィロロギーとフィロソフィー、両者はどう違うのでしょうか。


フィロロギーについてお話すると、キケロの前にイソクラテスがいます。彼はプラトンと同時代の人で、プラトンもイソクラテスも「俺の方がほんまのフィロソフィーだ!」とどちらも学校をつくった。プラトンがモデルにした幾何学で、「三角形の内角の和を足したら180度」のような、普遍で妥当なエピステイメ(厳密知)としてのフィロソフィーをやろうとした。


対してイソクラテスは、プラトンたちの「厳密知」に対して、自分のやっていることを「ドクサ(実践知)」と位置づけた。彼が言うには、厳密知というのはあるけれど、それはごく限られた領域でのみ成り立つんだ、と。そして厳密知はいつも間に合わない、というんです(笑)。問題が起こった時に、厳密な学問が完成するまで待っていられない。普遍妥当な知が求められない場合でも、人は何らかの判断をくださなくてはならない。今あるもので対応しなければいけないのだと。


そういう場面で必要な「ドクサ(実践知)」こそ、フィロソフィーとして求めるものだと、イソクラテスは主張した。しかし結局、プラトンの「フィロソフィー」が歴史的には勝ってしまった。今「哲学」といって僕らが思うのは、プラトンたちのフィロソフィーなんです。

(「俺の方がほんまのフィロソフィーだ!」とイソクラテス By Coyau / Wikimedia Commons, CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=15570847



ですが、イソクラテスの実践知の系譜は、脈々とつながっています。例えばキケロの弁論術。弁論術ではある場面、ある群衆にふさわしい弁論を目指します。それは何年も何百年も、千年後にも通用するような言葉ではありません。でもその場に合わせて、なるべく良いものを作り出そうとします。


現代人が意識しやすいのは、法律家でしょうか。弁護士はでたらめなことを言っているわけではなく――たまにはそういうケースもありますが、まじめにやっている段階においては――ある事件について、現行の法律やこれまでの判例を使い、今の常識や価値観に照らしてなるべく良い結論を出そうとします。


文化や時代が異なれば、根拠にできる材料も、出す結論も違うかもしれない。そういう意味で、数学の定理みたいに普遍妥当ではない。でも、人間が出会う事件や問題について、未来永劫変わらない永久不滅の真理が見つかるまで結論を待つわけにはいかないんです。


だから暫定的な結論に過ぎないことはわかった上で、今の時点でベストな、つまりそう簡単にはひっくり返されない答えを出すことに心を配る。それが次の判例になり、次の法的問題解決の材料になり根拠となって積み重なっていく。


17世紀から18世紀にかけてイタリアで活躍したヴィーコというナポリ大学でレトリックの教授だった人は、こうした蓋然性の知こそ追求すべきものだとして、この知的営為にフィロロギーの名をあてました。



◇「賢明な素人」になる


――先ほど「研究者ではない」とおっしゃっていましたが、もし自分を名乗るのとしたらなんでしょうか。


あえて言うなら「独学者」でしょうか。でも肩書は難しいですね。このテーマ、この分野をずっと追求しているとは言えない。あちこちに気が散ってしまう「なんでもやりたい屋さん」なんです。


プロ・専門家というのは自分で研究分野やテーマ、あるいはテーマが多岐にわたっても追求するアプローチはこれだと、決めた人だと思うんです。だからこそ、「おれはこれこれの者だ」と主張することができる、あるいは「これは俺の仕事じゃない」と言える。


でも思い出していただきたいのは、どんな人でも、職業的には何らかのプロであり、そして生活の中では誰もが予定も準備してない問題に素人として直面するということです。お腹が痛い文化人類学者は医療の素人だし、親が亡くなった医者は相続の素人です。つまり素人は自分でテーマを選べません。向こうからトラブルとか面倒事の形で「課題」がやってきて、それを受け止め、打ち返すしかない。


実は、専門家とは反対に「関係ない」とは言えないことに、人文知の起源のひとつがあるように思います。有名な言葉でHomo sum.というのがあるんですが、全文はHomo sum. Humani nil a me alienum puto. (私は人間である。人間に関わることで自分に無縁なものは何もないと思う)。


古代ローマの喜劇作家テレンティウス『自虐者』に出てくるフレーズで、西洋の知識人の多くが座右の銘にしたものだと言われてます。今の文脈に合わせてアレンジすれば「私は人間=素人である。人間に関わることで自分に無縁なものは何もないと思う」となります。


こうして人間=素人に対して、向こうからやってくる問題には、ぴったり応えてくれる専門分野や、これ一冊ですべて間に合う書物があるとは限らない。問題は専門分野に合わせて生まれてくる訳じゃない。でも人類が重ねてきた知がまるで役に立たないかというと、そうではない。例えば図書館のあちこちに答えやヒントは断片として散らばっているんですよ。それを探し回り、拾い集め、つなぎ合わせて解決にこぎつけるのは、「課題」を受け止めたその人の任務です。そして、ぼくがやっているのは、こういう意味での「人間=素人」としての知的営為なんです。


例えば、『独学大全』でも紹介した方法に、「NDC(日本十進分類法)トラバース」というのがあります。「トラバース」は登山用語で、岩に張り付いて、山肌から山肌へと渡っていくことです。図書館の資料は日本十進分類法という分類法にしたがって並べられているんですが、「NDCトラバース」はこの分類を使って図書館を横断するための方法です。ぼくの書いた『独学大全』や『アイデア大全』などの本は、独学や発想という課題に対して、こうして図書館の書架をトラバースしながら書かれたものです。


このように、専門家じゃないとしても、素人なりにうまくやっていく方法があると思っているんです。その在り方を概念化して「賢明な素人」(informed layman)という風に呼んでいます。


賢明な素人が生み出した解決は、時代や文化を越えて通用するものではないかもしれないけれど、まるっきりデタラメという訳じゃない。課せられた制約を満たしつつ、ありあわせの資源をつかって、なるべくよい結果を出そうとする蓋然性の知的営為。フィロロギストがそうした蓋然知の守り人なのであれば、「賢明な素人」は現在における継承者なのかなと思います。

(ブログ「読書猿Classic」https://readingmonkey.blog.fc2.com/




◇何百冊を1冊にまとめる


――読書猿さんは1997年からメルマガをされていたんですよね。


はい。いわゆる「インターネット老人会」みたいな感じです(笑)。


――メルマガで発信する際に意識していたことはありますか。


誰に伝えようとか、どう伝わっていくのかとかはあまり意識していません。元々、ほとんど読まれていない時期が長くて。あと、ぼくは怠け者なので、書かずに済むならやりたくないんですよ。でも誰も書いていないのであれば、インターネットがちょっとだけよい場所になるように、下手でもとりあえず書いて出そうと思ってしまうんです。


それも、大した話じゃなくて、例えば昔「廻転鳥」をどう読むかという質問がYahoo質問箱にあって、みんなデタラメな答えをしてた。当時はレファレンス協同データベースでも「不明」という答えしかなかった(今はあります)。中山泰昌『難訓辞典』(東京堂書店 1956)という古い辞書に載ってるのになと思って、それを記事(Google v.s. 図書館 「調べる力」を競う)にしたんです。そしたら次からGoogle検索でヒットするでしょ。


でも、それは自分の中で書くか書かないかの問題で、人に伝わると思ってメルマガを始めたわけでもないですし、今でも思っていないです。手紙を書いて、瓶に入れて、川に流している感覚。どこにたどり着くのか。きっとどこにもたどり着かないんだろうなと、ずっと思っていました。


というのも、最近はみんな携帯電話を持っていて、まず知り合いとインターネットでつながりますよね。ですが、ぼくが始めた当時のインターネットでは、周囲にやってる人はほとんど居ないし、逆にネットにいる人はどこに住んでいるのか分からない。誰にたどり着くのかが全然想像つかない世界でした。「同じ本を読む人は遠くにいる」と本の中に書いたのですが、それに近い感覚です。それに、自分が本を書くことになるなんて思ってもいなかったです。


――そうした中で、どこから記事を書きあげるモチベーションが湧いてくるのでしょうか。〆切のような強制力がないですよね。


強制力はないですね。書籍の場合は、編集者がいるので、ちょっと強制力がある(笑)。でもブログの場合は、締め切りもないので、悠長なペースでやっていて、完成させてもさせなくてもいいというか。調子の良い時は書くことが降ってくるんで、次はいつこんなラッキーが来るか分からないから、もったいなくて書き留めるんですが。来ないときは全然来ない。半年ほどブログの更新が空くときもざらにあります。おまけに、ぼくは書くのがすごく遅いんで。


ある程度のところまで書いて、中断して、全然完成できない。途中で挫折して放ったままの記事がたくさんあります。完成していないもの、忘れてしまっているものが無数にあって、その中のいくつかだけがブログやメルマガに出ている感じです。まあ、プロの書き手じゃないですよね(笑)。


今は執筆にScrapbox(https://scrapbox.io)というサービスを利用しているんですが、これは検索機能が優秀なんです。忘れていたトピックでも、検索して引っぱることができる。個人利用だと、いくら書いても無料です。このScrapboxで、書きたい本ごとにプロジェクトを作っているんですが、今調べてみると、68冊分できてました。文章を完成させられない性分なんでしょうね。

(読書猿さんのScrapbox。Twitterを経由して読者から来た質問と回答がまとめられている。)




――68冊……! 読書猿さんの生活についてお聞きしたいのですが、平日はフルタイムで働いているんですか。


そうです。


――独学の時間はどこで確保しているのでしょうか。


通勤時間が往復で3時間あるので、本を読んだり書いたりする時間に当てています。『独学大全』も、かなりの部分を電車の中で書きました。思いついたことをiPhoneでノンストップで書いていき、あとで組み合わせたり加工したりしている感じです。最近のファーストライトは、iPhoneのフリック入力か音声入力になりました。分量的には3分の1くらい喋っている感じです。さすがに電車の中でぶつぶつ音声入力していると気味悪がられるんで(笑)、音声入力は歩いている時思いついたことなど、立ち止まって喋る感じですね。


――喫茶店やオフィスなど、決まった場所で書くことはありますか。


そんな余裕、時間がなくて。きっと落ち着く場所があれば、もっといろいろ書けるのかもしれませんが。いや、そうでもないか。電車がいいのは、途中で投げ出せないこと。途中で降りたら遅刻してしまいますし。日々の暮らしが変わったとしても、毎日毎日決まった時間帯として確保できるんです。まあ、疲れて寝ちゃう時もありますけど(笑)。家に帰るとくつろいでしまって、ネットを見ることはできても、書いたり読んだりは難しいですね。


――資料は膨大だと思うのですが、どのように管理していますか。


図書館もコロナで行けなくなり、資料は買ってしまうことが多くなりました。興味のまま買うと家が壊れます(笑)。なので、わーっと本を買い込んだら、本を書くのに使って、書き終わったら何百冊バーンと売る。本はストックではなく、フローになってます。


むしろ、この何百冊を1冊にまとめたいから、そのために本を書いている気もします。本棚を空けるために本を書いてる(笑)。この『大全』1冊があれば、500冊分のスペースを空けられるじゃないか、と。だから、何冊も同時並行で本を書けと言われたら難しいですね。


あと、なるべく電子データで手に入るものは、そっちで買うようにもしています。論文はデータで手に入る事が多いので、増えても記憶媒体は圧迫しますが、物理的には大丈夫。でも、『大全』を3冊書き終えたら、使っているマッキントッシュのストレージが足りなくて、警告が出まくっています。いろいろ移し替えたり、捨てたりするんですけど、間に合わないです。


――本の自炊などはされるのでしょうか。


一応スキャナーは買ってあるんですけど、国会図書館の複写サービスで送ってもらったものをスキャンするくらいで、本まで手が回ってません。ぼくは不器用で、定規でまっすぐ線を引けないような人間なんで、本を裁断するのが気が重い。あと、やっぱり本を聖なるものだと思っている節がどこかにあって、自分の手を汚したくないとも思っています(笑)。500冊を売っちゃう前に、自炊すればすごいデータベースになったのに、と思うんですが。図書館を作ってみたいですね。


そうそう、工藤郁子さんが前回のインタビューで「金で解決します」と言ってましたよね(笑)。近い部分はあるかもしれません。お金は使っちゃっていますね。


500冊売ったと言いましたが、残したいものは残しています。そうすると、情報密度が高い辞書や事典ばっかり残っていく。この辺の20冊捨てても、この1冊残せば大丈夫だなと、そういうことばかり考えてる。残す本については情報密度を重視しています。


――本の並べ方など、資料の整理方法はありますか。


知的生産技術的なことが苦手で、ルールをつくっても、自分で守れないんですよね。重要なところに赤線を引こうと思っても、しばらくすると違うルールをつくっちゃったりして、どんどん変わっていくので最初からつくらないようにしています。結果、メモとかノートはどんどん失くしますね(笑)。今はコンピュータがあるので、ストレージのどこかに残っているとうれしいとか、そういういい加減な感じです。本も、自分としては似てる本同士を近くにまとめてるつもりなんですけど、図書館の方が見たら、メチャクチャ過ぎておかしくなるかもしれませんね。


――本の数は膨大だと思いますが、一緒に同居されている方の理解はあるのでしょうか。


妻はめっちゃくちゃ理解があります。でもこっちの悪行の方が、理解を超えてしまっているので……。問題がないわけじゃない。でもすごく理解がある。彼女も本を読む人なので。ぼくよりもはるかに優秀な読書家なんです。だって『独学大全』を80分で読むんですよ。


――えっ。


ぼくは本当に読むのが遅いんですけど、彼女は速いんです。だから、『独学大全』の読書法の部分をみて、「色々と工夫しているけど普通に読めばいいじゃん……」とちょっとかわいそうな目で見てるんじゃないかな(笑)。

(『独学大全』書影。分厚い)




◇「水を運ぶ者」になる


――『独学大全』で印象的だったのが「私淑」の話でした。


「独学」は「孤学」ではないとこの本の中で繰り返してるんですが、そう言えるひとつの柱が「私淑」、直接会ったことのない人を、架空の師とすることです。独学者が師匠を持つというと変に思う人もいるかもしれませんが。自分だけでやっていくと、行き詰まることがあります。


でも直接教えを受けなくても、自分が進むその先に誰がかいると気付くだけでも、ちょっと頑張れる。「あの人ならどうするだろう?」と考えるだけでも、道が見つかることがある。あと、リアルに弟子入りした場合、人間関係的にややこしくなるので、あまり二股とかかけられないですが(笑)、独学者にはそんな気兼ねはないので、私淑する師匠は複数選んでもいい。


ぼくが私淑している一人が林達夫です。彼は岩波書店の『思想』や、平凡社の『世界大百科事典』の編纂に携わった人物です。ぼくは百科事典に出会ったのが遅くて、その分感激したというか、すごく助けられてきたという気持ちがあって、彼を知った時は興奮しました。


書くものはどれもすごく面白いんだけど、その上、あの百科事典って人がつくっているんだ、しかもとんでもない物知りのおじさんが編纂しているんだと。今まで百科事典は人がつくっているとイメージできてなかったんですね(笑)。

(『思想』林達夫が編集に関わった1929年4月号と、現在の8月号。岩波書店提供)



彼を知り、こういう人になりたいと思いました。学問とジャーナリズムの間を行ったり来たりしていたので、アカデミシャンとしては評価しづらいのかもしれない。だいたいこの人、あんまり書いたものを残してない。「書かざる学者」という異名があるくらい。でも残された仕事を見ると林達夫のすごさがわかる。ぼくにとって、アカデミック・リサーチよりも前にあった、知的営為のひとつのアイコンになっている人です。今の知の在り方には向いていないし、林先生も”はぐれもの”だったんじゃないかな、って思うんですが。


その割にみんなに愛されてるのが面白い。『世界大百科事典』で原稿料の遅配があって、京都の研究者たちが「けしからん、ボイコットするぞ」と集会を開いたんですって。ほとんどボイコットに決まりかけた時、桑原武夫が「ぼくはボイコットでもいいけど、そしたら林さん、困らはるんやないかな」とボソッと言ったら、みんなハッと我に返ってボイコットの話はうやむやになったという(笑)。

『独学大全』の宣伝をブログに書いた時、「水を運ぶ者」という言葉を使いました。水は当たり前にあるものですが、生物にとって不可欠で大切なもの。それをどうやって運ぶのか。百科事典も知の水を運ぶ仕事のひとつだと言えます。


(引用)2020.09.26 読書猿 著『独学大全』ダイヤモンド社より9/29刊行します

 『独学大全』という本を書き終えて、私は自分がやっていることの意味と意義をかつてより理解したように思います。

 これまで私は、自分の仕事を「知識の灌漑工事」のようなものだと思ってきました。遠くにある知識の「水源」から、人々のところまで「水」を引いてくる仕事です。

 私はこの言い方を、フットボール(サッカー)の中で使われた最も美しい言葉の一つだと思う、イビチャ・オシムの「水を運ぶ者」という言葉から思いつきました。

 フィールドを駆け回ってどこへでも顔を出し、他の人がよい仕事をできるように「つなぐ」仕事です。

 才能や能力に恵まれた人たちのように最前線に立って「点を取る」ことはできませんが、人々がいなくなってしまった「スペース」を埋め、「ルーズボール」を拾い、それを必要とする誰かにつなぐことならできるかもしれません。


また『在野研究ビギナーズ』(明石書店)にも寄稿されていた酒井泰斗さんは、研究会をいくつも主催して、研究者を支援しています。なぜそんな動機を持つことができるのか。そして何年も続けて、すごい成果を挙げているわけです。彼が関わった本はぜんぶ役に立つし、ぼくに必要な本ばかりです。ぼくがおこなうべき仕事も、分野もやり方も違いますが、そうしたものであればと思っています。アカデミックな世界の周囲や離れた場所にも、いろんな「水を運ぶ」仕事がたくさんあって、知識の森は成り立っているんです。



◇「運命から人生を取り返せます」


――インタビューをした皆さんにお聞きしている質問なのですが、独学をするうえで、どのようにしたら「トンデモ」なものから距離を取れると思いますか。


ぼく自身がトンデモかもしれません(笑)。正しい方と面白い方があったら、どちらかというと面白い方をとってしまうので。だからいろいろ間違える。ただ一方でぼくはフィロロギスト(好学者)なので、学識はないけれど、学問好きに関しては人後に落ちない自信がある。


冒頭で学術研究の悪口を沢山いいましたけど、もちろんリスペクトしている。研究も、研究者もほんとにすごいんですよ。自分は厳密知を担う者にはなりえないですが、自分の「好き」を裏切らないくらいには、学問的な裏を取りたいと思っています。もしかしたらトンデモにハマりきるためには、そこが邪魔になるのかなと。


例えば歴史のトンデモに行ける人は――あえて”行ける”という表現をしましたが――プロの歴史家を気楽に批判できるんです。自分のほうが見えてる、分かってると思えないと、なかなかああは批判できません。でもプロの歴史家はものすごい量の史料を吟味して突き合わせて、そうやってできるだけ整合的になるように一つの解釈を構築する。そして歴史家同士が、ものすごい論争を重ねて、それぞれの解釈の弱点をあぶり出し、批判し合う。


私達が手にする歴史学の知見のひとつひとつが、そういう気の遠くなるようなプロセスを経ているのを知ってしまうと、それに対して自分の思いつきの方がすごいとか、自分の方がよく知っているとは到底思えません。


もうひとつ、トンデモは素朴に面白くないんです。分かりやすすぎるというか、マンネリというか、人間がハマりやすいパターン、例えば認知バイアスのようなものに、わかりやすくハマっている。もちろん歴史家だって個人としてはそうしたバイアスの影響を免れない。でもだからこそ、歴史学には、そうしたものに陥らないための方法論の、そして論争の積み重ねがあります。「○○が悪い」「○○の陰謀」みたいな素朴な嘘を信じるよりも、一筋縄でいかないことをやったほうが複雑で面白いと思いますよ。


過去を振り返ると歴史学者が、すごく単純な主張をしたり、ひどいことを言っていた例はたくさんありますが、歴史学の中でもやがて批判が生まれて、主張のまずい部分が吟味されていく。そうして知識を改訂し続けて、それなりの蓄積はしてきたという信用があります。これは個々の学者を信じるというよりも、人類が改善を重ねてきた知的営為をリスペクトするということなんじゃないかと思います。


――読書猿さんのお住まいは、首都圏ではないんですよね。独学と地域の関係について、考えていることはありますか。


研究会に参加したいなどのモチベーションがあれば、東京の方が機会が多いかもしれませんね。でもぼく自身はあまり人と接してきたわけではないので、それこそ、図書館があって、ネットにつながっていればできることしかやっていない。そういう意味では、地方の悲哀とかあまり感じてないかもしれません。


きっと、仲間がいないのがぼくの大前提なんです。今週は先週と全然違うことに夢中になっていたりするので。地方だから同好の人が見つからないのではなく、きっと都市にいても見つからないんですよ。


ぼくは学生の時に「君のやっているのは独身者の思想だ」と言われたことがあります。知的な意味でずっと「独り者」だろう、師匠を持つことも弟子を持つこともできないだろうと。アカデミシャンとしては死刑宣告ですよね。実際、その通りになってしまった。でも幸いにして、読者はいてくれる。最初はネットを通じて、遠くにいる人たちに、自分の書いたものを読んでもらえるようになった。


そういう意味でも、ネットからすごく恩恵を受けたと思います。ほとんど第一世代みたいなもので、今思うとあんまり便利じゃなかったんですが。昔は本を買うのも大変で、本屋になければAmazonで買えばいいというわけにもいかなかった。昔、NiftyServeというパソコン通信サービスの中に、クロネコヤマトが本の注文を受けてくれるサービスがあったのですが、検索しても、タイトルと著者名くらいしか分からない。中身はもちろん、表紙も目次も見ることができないんで、当てずっぽうで本を買ってた。それでも書店に行かずに買えるのはすごいと思ってたんです。だからとんでもない本もいっぱい買いましたよ。安くない授業料でした(笑)。


ぼくがやっているようなことは多分、どこにいても、ネットさえつながれば出来ることなんです。例えば、今はネットさえつながれば、世界中の図書館にメールで質問ができる。それに世界中の書店、古書店から本が買える。


いつだったか記憶術に関する展示がイタリアの博物館であって、その図録を探してたら、フィレンツェの古書店が送ってくれた。ぼくが若い頃だったら、少なくともめんどくさがりの自分にとっては、不可能だったようなことができるので、あまり地方の悲哀は感じてないですね。


もちろん生身の人間なんで、できないことは数限りなくありますよ。本業があるから時間的にも制約は多い。あと体力もないし、根気もない。読むこと、覚えること、学ぶことに関しては、今だって苦手なことばかりです。ただ、まあなんというか、ぼくは諦めることを諦めてしまったんです。


『独学大全』についてのインタビューで、「独学したら何かいいことがありますか?」と質問されたことがあって、「運命から人生を取り返せます」と答えました。元々はイソクラテスが教養について語った言葉をもじったんですけど。


彼は、教養とは運命として与えられた生まれ育ちから自分を解放することだと言った。学ぶことで運命として課せられた制約から自由になれるんだというんです。時間がなかったり、お金がなかったり、学校に通う機会がなかったり、師匠がいなかったり、地方で生活して仲間が見つからなかったり、近くに大きな書店や図書館がなかったり、生きているといろんな制約があります。


でも最後の最後まで、独学という可能性は自分の手元に残っている。「独学者とは、学ぶ機会も条件も与えられないうちに、自ら学びの中に飛び込む人」(『独学大全』序文)なんですから。


こちらが諦めない限り、知は私達を見放さない。独学は単に知識を得るだけではなく、現実を変えるような力を持っています。一瞬で何かを解決できるようなものではないかもしれませんが、今と違う現実を想像すること、少しずつ現実のくびきをはずしていくことができるのではないかと、賢明になりたい素人なりに思っているんです。



〈読書猿の独学術〉

  • 素人は自分でテーマを選べない。「賢明な素人」になるべし。

  • 通勤時間を読み書きの時間にあてる。

  • 独学の師匠を決めて「私淑」する。

  • 本は「ストック」ではなく「フロー」。情報密度の高い辞書だけ残して、あとは売る。

  • 人生のさまざまな制約の中でも、独学することだけは自分の手元に残る。


●記事執筆者

山本ぽてと(やまもと ぽてと)

1991年、沖縄県生まれ。早稲田大学卒業後、株式会社シノドスに入社。退社後、フリーライターとして活動中。構成を担当した本に『経済学講義』(飯田泰之・ちくま新書)、『憲法問答』(橋下徹、木村草太・徳間書店)、『16歳のデモクラシー』(佐藤優・晶文社)など。「STUDIO VOICE」 vol.415「We all have Art. 次代のアジアへ――明滅する芸術(アーツ)」では韓国文学の特集を担当。B面の岩波新書で「在野に学問あり」、BLOGOSにて「スポーツぎらい」を連載中。


*連載「在野に学問あり」

第1回 荒木優太

第3回 逆卷しとね

第4回 辻田真佐憲

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